こんな経験は、誰にでもある。
ある男が手製の斧を鍛冶屋からかった。
その硬い木製の持ち手の先に付いていたのは、
何世紀にもわたって語り継がれているように、
くすんだ灰色の煤に覆われた斧の頭となる鉄で、
刃の部分は鍛冶屋が砥石で研いで煤を取り去っており、滑らかな銀に光っていた。
男はその刃の見た目がいたく気に入り、
斧の頭全体も同じように磨いて光らせてくれと頼んだ。
鍛冶屋は砥石の車輪を回すのを手伝ってくれるなら、という条件で同意した。
鍛冶屋が斧の頭を砥石に押しつけると、
男は車輪を回し始めた。
しかしその作業は想像よりも遥かにきつく、
わずか数分後に、
その男は作業をやめてしまった。
進み具合を見てみても、
願うような銀色に光り輝く表面にはなっていなかった。
いくつかの部分が砥石にかけられただけで、
所々が光っている灰色の表面だった。
男は、とにかく今の状態のまま斧を家に持って帰ると主張した。
「ダメだ!もっと砥石にかけなさい」。
鍛冶屋は言った。
「だんだん光ってくるから。いまはまだ、所々光っているだけだ」
「ああ」と男は言った。
「でも所々光っている斧が一番良いんだ」。
輝く、滑らかな、傷ひとつない斧を求めていたはずなのに、それを手にするまでの努力や労力を億劫だと感じてしまう。
すっかり磨き切るのではなく、
そもそも所々しか光っていない斧を欲しかったのだと自分に言い聞かせるほうが遥かに簡単なのだ。